酒井ミチコさん旭日単光章の叙勲伝達式 日本政府がフィリピンにいる私達を忘れなかったことを感謝

在ダバオ総領事館は26日、酒井ミチコ氏(86)の旭日単光章の叙勲伝達式を市内ホテルにて行った。酒井ミチコさんは日系2世で、コタバト日系人会(中北部ミンダナオ日系人会)会長として日系人への国籍回復のための支援が優れた貢献と認められた。式典には、家族親類、日系人、総領事館、マスコミ関係者ら約50名が参加した。

酒井さんは1936年、父・酒井弘男さんと母・プリミティバ・ヤネツさんの間に生まれた日系2世。父・弘男さんは英語やビサヤ語が話せたため軍属として招集され通訳業務をおこなったとのこと。1945年6月頃に家族のところに戻ってきたが、その後日本軍と合流し消息を絶った。



内閣府のページから確認できます。カテゴリーは外国居住者。

https://www8.cao.go.jp/shokun/hatsurei/r04aki/meibo_jokun/kyokujitsu-48zaigai.pdf

功労概要:在留邦人・日系人への福祉功労

主要経歴:コタバト日系人会会長(*ミンダナオ中北部日系人会、通称コタバト日系人会)

70年代にコタバト州で日系人の子どもを支援するボランティア活動を始めた。また同年代には日本から慰問団、遺骨収集団が訪れるようになり、日系人が案内や通訳として対応するようになった。75年頃に日系2世会が設立され、1988年に設立される中北部ミンダナオ日系人会の母体になり、酒井さんは初代会長に選出された。日系人の子どもに教育機会を提供する活動を通じ日系人の福祉向上に尽力したほか、主にコタバト州における無国籍日系人の就籍への支援を続けてきた。

石川総領事のスピーチより

「本日は酒井ミチコさんを称えるために今夜ここに集まりました。2022年11月3日、徳仁天皇陛下は酒井ミチコさんに対して、旭日単光章を叙勲されました。

旭日単光章は2国間関係における各分野(調査研究、経済、社会福祉、文化など)において顕著な貢献をしたものに送られる。酒井ミチコさんへは、特にコタバト市における日系人への社会福祉に対する貢献を認識して授与された。

2世は、第二次世界大戦で父親を失い、または復員のため生き別れてしまった。戦争難民となった子孫、日系人と呼ばれる。

酒井ミチコさんは、1970年代からボランティアでコタバト市を中心とする地方で日系人の子供を支援し始めた。

1988年、コタバト日系人会が設立されると初代の会長に選出された。日系人の子供に教育の機会を与えるなど、酒井ミチコさんはその団体の活動に自身を捧げ、日系人の生活の向上に貢献した。

日系人の多くは「無国籍」状態におかれている。理由は、父親の婚姻記録が戦争の混乱で失われ、または破棄されて、証明することが出来ないからです。

酒井ミチコさんは、書類を収集し日本国籍を回復するために重要な役割を果たしました。

故に、日本政府は酒井ミチコさんに対して、日比の親密な関係を強化した彼女の活動を称える。陛下よりあなたの良き努力に対して認められました。おめでとうございます」

酒井ミチコさんのスピーチ

酒井さんは叙勲に対して、スピーチを行い、日本が私たちを忘れていなかった、というくだりでは言葉を詰まらせていた。以下スピーチの最初の挨拶文を除いたほぼ全文を掲載する。

日系人としての私の人生の旅は簡単なものではなかった。

若い頃、父親といたことを覚えている。

ラナオ(のカムケックレ)に住んでいた。

戦争が終わったら全てがもとに戻ると思っていた。しかし、人生はチャレンジの連続だった。父親とは離れ離れになった。小さい子供の頃、私の一番の夢は兄弟姉妹と父親ともう一度元通りに一緒に暮らせることでした。

強いで私は日系人の子どもたち(2世)を組織化し、PNJKのようにマネージしました。そして情報を共有し、希望を高く持ち続けました、

多くの日系人が、長い期間の身元搜しを通して、父親とUnited(連帯)していきました。

私のケースでは、父親は捕まったのではなく健康上の理由でマライバライライ市のキャンプにいたことを知りました。それから、父親がどうなったか知りません。父親側の家族の女兄弟が父親はフィリピンのある山中で病気で亡くなっていたと私達に知らせてくれました。しかし、正確な時期、場所の情報はありませんでした。私は運命と受け入れて、父親の安らかな眠りを祈りました。

日本国の政府は、フィリピンにいる日本人の子孫(日系人)の身元搜しを積極的に開始してくれてとても嬉しい。

私はとても嬉しい。以前は、私達が、日本人のアイデンティティがあるため差別されていたころ、日本と連帯することが出来なかった。

今は、状況が変わった。2世だけではなく、私達の子どもたち3世、4世にも権利が与えられた。私はフィリピンにいても、権利は下の代まで伝わっていった。私達の仕事や努力は、彼らが日本に滞在することにつながっていった。

私は日本政府に非常に深く感謝しています。

フィリピンにいる私達を忘れなかったことを。

私を忘れなかったことを(言葉を詰まらせる)。

日系人のコミュニティに対する私を認めてくれて、この表彰をして下さることを。

私は、日本人の家族として認められたと感じます。

日本人として、日本を愛しています。

ありがとうございます、石川総領事、ここにいる皆さん、ありがとうございます。」




マリア・スサーナ・アルフォンソさん(63、次女、ダバオ市在住)「母を誇りに思う。天皇陛下の事務所(日本政府)にも感謝しています。アレンジをしてくれた石川総領事にも感謝しています。涙で化粧が・・・」と目を押さえた。

ジェニカ・パクシーさん(36、孫、愛知県在住)は飛行機で駆けつけた。「大変誇りに思います。天皇陛下に感謝の気持ちもあります」と嬉しさを表した。

スサーナさん(左)、石川総領事(中)、ジェニカさん(右)


エストレリア・ディアスさん(72、コタバト市在住、3世)、「独身の頃から酒井さんと山に行って日系人の国籍回復の支援をしていました。今回の受賞は素晴らしいことです。

「祖父、父は軍属として招集され、田中部隊に所属し祖父は水道、父は自動車整備の仕事をしていました。酒井さんのお父さんは軍属として通訳をしていました。祖父が病気でなくなったので、父は日本へ復員せず、家族のもとに戻ってきてコタバトで暮らしました。」

「父は日本人であることは隠し通しました。2世なので、ビサヤ語、英語、マラナオ語が出来たのです。しかし、収入は最低限でした。」

「私は働いていた時分はポケットマネーも出して日系人を支援しました。昔はコタバトの日系人会は小さかった・・・。まだサランガニ州には日系人がいると言われるが行ったことはありません。パリンバン(Palimbang)町は行くのが難しい。吉岡ファミリーという大きな家族がいるとか・・・」

石川総領事夫妻、酒井ミチコさん(右から2番目)、
エストレリアさん(右端)

フィリピン日系人会元会長のジュセブン・アウステロさん(53) 「日本の外務省が以前よりもアクセスしやすくなり嬉しい」とコメント。

ミチコさんと握手をしているジュセブン・アウステロ氏(右端)


酒井ミチコさんの経歴については、前回記事を参照。

https://pmcei.blogspot.com/2022/02/blog-post.html


<私の意見>

酒井ミチコさんの父親は通訳として軍属にとられ、生き別れた。エストレアさんの祖父、父親も軍属にとられ、その後一家の生活は貧しくなった。

国策で満州国に移民させられた中国残留孤児と異なり、フィリピンの日系人は、経済的な理由で自発的に移り住んだため補償がされないという理由らしいのですが、

1世の父親は現地語が話せたり、車が運転・修理出来たりという理由で軍属(軍人以外で招集され軍に属したもの)となり、その後の運命が大きく変わっている。

法的には、1944年7月特措法により在留邦人はすべからく軍属となっている。

この点から国に責任は免れない。フィリピンに残された2世に対しては国として国籍回復の対応をするべきではないかと私は考えています。

しかしながら、2世は平均年齢が80才を越えておられ証拠書類も不足しており、現実的には国籍回復が間に合わないだろう。特別な国籍回復の方法を講じるか、それが難しいなら1人でも多くの日系2世を訪ねて最後に日本人として認めるという精神的な救済だけでもやらないよりはやった方が良いと考えます。





























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