慰霊祭の開催 ダバオ市バランガイミンタルにて

 

2022年8月7日、ダバオ市バランガイミンタルの共同墓地にて毎年恒例の慰霊祭が開催された。市街地から車で約45分、ダバオ-ブキッドノン幹線道路から1本中に入った閑静なところに墓地がある。戦前、ダバオには2万人の日本人が居住していたと言われ、特にミンタルは戦前リトル東京と呼ばれてきた。


参加者は在ダバオ総領事館、フィリピン日系人会インターナショナルスクール、ミンダナオ国際大学、ミンダナオ日本人商工会議所、日本フィリピンボランティア協会、日本フィリピン企業協会、フィリピン日系人リーガルサポートセンター、ダバオ日本人会の関係者や一般ゆかりのある人で、各人が花を供え線香を手向けてお参りした。

ダバオ市バランガイミンタル共同墓地にて。
前列はバランガイミンタルのレスキュー隊 
2022年8月6日 太田勝久撮影

石川総領事コメント(素晴らしいので全文引用します)

「まず最初に、慰霊祭を開催するために、本日ここに対面で開催集まることが出来たことをお慶びを申し上げます。最近2年間はコロナのために、ほんの一握りの方々しか参加が出来なかったとお聞きしております。

私たちは、今、我々日本人の先人たちのことを記憶し、祈りを捧げるためにここにいます。先人たちの中にはここに眠っている方々もおられます。先人たちは、1900年代初めに、日本とダバオの親善の基礎を築かれました。

初期の日本人移民たちはダバオ市発展の先駆者とされています。彼ら・彼女らの多くが、ミンタルを、その近隣のカリナンを故郷にしたのだと知り、心が温まる思いがします。悲しいことに、戦争の暗い日々が、我々の先祖の努力に影を落としました。日本は、この暗い日々から多くのことを学び、二度と同じ過ちを繰り返してはならないと心に誓ったのです。

今日、戦後77年が過ぎました。77年前のまさに今日、広島は初めての原爆を経験しました。戦後、日本とフィリピンはこれまで長い時間をかけて、ともに歩んできました。我々は今や真に親しい友人になりました。さまざまな分野で、たとえば経済、ODAプロジェクト、ミンダナオ和平、文化・教育・人的交流の分野で、我々は今や素晴らしい二国間関係をエンジョイしています。

この二国間関係がゴールデンタイムにある今だからからこそ、我々は目を閉じて、この関係の真の理由は何なのか考えなければなりません。我々の現在の努力でしょうか?いえ、決して違います。我々は我々の祖先に感謝しなければならないのです。彼らはここに移住し、良き両親として、尊敬されるコミュニティの一員として、努力しました。そして、抗いようのない歴史の運命に苦しんだのです。

彼らは命をかけて子孫のために、将来の世代のために最善を尽くしてくれたのです。これを忘れるべきではありません。眠っておられる方々の声を聞き、彼らのために祈らなければなりません。

終戦にあたり、孤児になり、またはフィリピンに取り残された日本人、日本人の子孫は迫害に耐え、今やその立場を取り戻しました。コミュニテイの進歩のため、彼らの貢献はここでも日本でも高く評価されています。私は、日本人の子孫としての、彼らの御苦労と高い誇りに対して、心からの敬意を表したいと思います。

最後になりますが、お亡くなりになられた先人の皆さまが、日本とダバオの友情の架け橋を築かれたことに対する、我々の感謝の気持ちを示すものとして、献花とお祈りをお受け頂けますように希望いたします」

イネス・ヤマノウチ・マリャリ ミンダナオ国際大学学長(兼フィリピン日系人会連合会会長)(51):毎年恒例の慰霊祭はバランガイミンタル、在ダバオ総領事館、フィリピン日系人会の協賛事業として開催しています。1903年に移民が始まり今年で119年になりました。今日のダバオ市内で享受している発展には、多くの日本人移民に恩恵を受けていることを思い出す機会でもある。ご参列の皆様には深い感謝を申し上げます。

バランガイミンタルのバランガイ議長レイアマドゥラー・M・バーガメント REY AMADOR M. BARGAMENTO(46):バランガイミンタルを紹介する時には、戦前は「リトル東京」と呼ばれたことを付け加えています。子どもたちにはミンタル小学校やミンタル病院の歴史を話す。丸山さんとか佐々木医師のことを。ダバオと日本の偉大な歴史を若い世代が知るようになる。それが我々の責任でもあり誇りです。普通の感謝ではない、最大級の感謝の気持ちを祖先に捧げたい。皆様に来て頂いて感謝しています。




















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