酒井ミチコさん(コタバト日系人会元会長)の在外公館表彰 

2022年2月7日、ミンダナオ島ダバオ市にて酒井ミチコさん(85)が、在ダバオ総領事館の三輪芳明総領事より在外公館による表彰を受けた。酒井ミチコさんは日系2世で、1936年11月5日に南ラナオ州マラウィ市において父酒井弘男とフィリピン人母プリミティバ・ヤネツの間に生まれた。戦後、日系人の国籍の回復に長年にわたって務め日比両国の理解と友好を深める多大な功績が認められ三輪総領事がダバオ市内の自宅を訪ね表彰状を読み上げ手渡した。

英語と日本語で読み上げられた三輪総領事(左)と酒井さん(右)





長い間、私財を使って日系人を支援をしてきた。それが認められて嬉しい、と酒井さんがコメント。最初は言葉にならなかったです。

左から、三輪総領事、酒井ミチコさん、娘のSusanaさん

酒井ミチコさんは兄弟2男4女の長女で、父親の酒井弘男さんは1930年代にフィリピンに渡り、マラウイ市で調理具や家具などを扱う店を経営していた。当時としては珍しく自家用車も所有していたとのこと。第2次世界対戦が始まると、英語やビサヤ後の通訳ができる父親は軍属として陸軍の田中部隊に従軍。戦後は子どもたちを母親に託して消息不明になった。

戦後、反日感情が悪化し日系人は差別を受け、多くが山奥に逃げ込んだり証拠書類を廃棄し日本人であることを隠さざるを得なかった。無国籍のため教育や医療などを受けられず経済的にも厳しい最貧困の生活を余儀なくされた。

高校卒業後は、スペイン人系フィリピン人の男性に見初められて結婚した。男性はスペイン系地主のロアレス家に連なり、コタバト市でココナツ農園と家を持ち2男5女に恵まれた。ココナツからコプラを作り質素な生活を送る一方で、日系人と聞きつけるとポケットマネーで交通費や手続きの足しにした。日系人は貧困に喘いでおり書類手続きに割けるお金が無かったためである。娘たちが国籍を回復し日本で就業してからは仕送りの一部も利用して日系人の支援を続けてきた。

時代が前後しますが、1970年代に入ると慰霊団、遺骨収集団がコタバトを訪問するようになり、日系人が現地でアレンジを行った。日系人の国籍回復を支援するNPOフィリピン日系人リガルサポートセンターによると、1975 年頃に、コタバト周辺に住む日系人2世によって「コタバト二世会」が組織された。当初 20 人ほどから始まり、1988 年に中北部ミンダナオ日系人会(通称コタバト日系人会)の設立に発展した。現時点で2~4世を含め800人ほどが加入し、その約8割が日本に滞在しているとのこと。

この会の目的は、日系人会員の相互扶助、協力と調和を促進し、会員、社会の教育的、文化的、経済的成長を促進すること。最も重要な役割が残留日本人 2 世の父親の身元捜しです。
酒井ミチコさんは1988年~2007年まで20年に渡り会長を努めた。なお、ご本人が日系人と認められたのは1988年である。

酒井ミチコさんのコメント
受賞に際して涙ぐんで言葉に詰まった。「これまで犠牲を払ってやってきたことが認められて嬉しい。日系人を愛していました。問題と戦っていて心が折れそうになったこともありました。それでも多くの問題を克服して来ました。今回は大変な名誉です」とコメントした。

また、日本に行く日系人には「お金のためだけに働くのではなくて、日比の関係を改善するよう務めて下さい。日本の文化を学び、働かせてもらう会社を尊重しなさい。お金を使い切らずに貯めて戻ってきて家族に貢献するように」と釘を刺すアドバイスもしている。

PNLSC代表猪俣氏のコメント
ミチコさんをよく知る日本人の1人で、フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)代表理事の猪俣氏は「酒井ミチコさんは戦中に消息不明となった自分の父を探しながら1970年代にコタバトに日系人会を立ち上げ、残留日本人二世の親族捜し、国籍回復のため尽力されてきました。額に汗をかきながら国軍と反政府グループの戦闘が頻発する地域に住む残留二世たちを訪問し、話を聞き、困窮する彼らを支援してきた姿を見てきました。今回の叙勲は、ご本人、ご家族のみならず、フィリピンの日系人社会にとっても大きな誇りであると思います」とコメントした。なお、猪俣氏自身はコタバト市を訪れて酒井ミチコさんにヒアリングをされている。そう言えば、つい昨年末にも来られたばかりでミチコさんのことを話題にしていました。

戦後75年が過ぎており、2世の平均年齢が80才を越えている。
ミチコさんによれば「スルタンクダラット州のレバック町などの山中に日系人がいる」とのこと。
国籍回復は時間との戦いになっている。

なお、三輪総領事は2月8日にダバオを離任。
離任前日の在外公館表彰でした。

当初は3月に離任予定でしたが、急転直下、外務省からの辞令があったそうです。
緊急性・重要性を加味しての三輪総領事が表彰をされて行きました。
ミチコさんが、表彰に感極まっておられたのが印象に残ります。
この度はおめでとうございました。

戦前、戦中、戦後のお話を伺いました。
食べ物が無く弱った日本兵に妹とさつまいもをあげたこと。

ブキドノン州マライバライライ市に日本兵収容所に父親がいる可能性があったが、危険で見に行けなかったこと等。

Susanaさん。他の兄弟姉妹は日本に在住。
途中、日本にいる姉のLisa会長に連絡を取りコタバト日系人会の情報を確認してくれた。


揚げ春巻きルンピア、Goldilocksのお菓子でおもてなし。
Susanaさんの作るルンピアLumpiaは美味でした。
肉が多目でした。
普段は揚げ物を食べないのですが、3本頂きました。


左からSusanaさんの旦那さん、Susanaさん、酒井ミチコさん、三輪総領事

左から、太田(筆者)、酒井ミチコさん、三輪総領事


1時間滞在後、三輪総領事が戻られた。


三輪総領事を見送る酒井ミチコさん、Susanaさん。
三輪総領事は2/8にダバオを離任。
前日まで仕事をされていった。





参考資料
1.陳述書 フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)猪俣氏作成
参照し本文中に引用した箇所:1)2/7のインタビューではミチコさんのお父さんは、乾物(?)を扱っていると聞いたが、陳述書によればキッチン用品、家具とのこと。2)お父さんの自動車の所有の事実。3)コタバト日系人会の正式名称は「中北部ミンダナオ日系人会」であること。

2.国際協力ジャーナル 2015年8月号 P71~74 中坪央暁 
ミンダナオ平和構築支援の現場から 第7話 武装解除
参照し本文中に引用した箇所:兄弟や子供の人数・性別の情報。

~インタビュー(音声)メモ~
1988年から約20年間コタバト日系人会の会長を務める。
娘のLisaさんが現会長。
 20人強(25人)の2世、3世、4世が会員。(約800人)100人以上が日本で働いているわね。


私達は日本政府に認知されておらず問題だった。
どうずれば、私達のために良いか、考えていた。西田弁護士が訪ねてくれて、助けてくれた。西田弁護士はすべてを理解してくれた。そして日本に行けるようになった。戸籍謄本を調べた。以前は戸籍がなかった。戸籍は重要。私達は、ただ、ファミリーヒストリーを伝え聞いているだけだった。

私は嬉しい。第二次世界大戦で私達は日本を失った。私達は日本人の子供ということで差別にもあってきた。今では、多くの人に尊重されるようになった。生活水準も上がった。昔は、Very Lowだった。

日本に働きに行ったDecendants (子孫)はフィリピンに残っている子孫を助けてくれた。Great Help。両者の関係は良い。

以前、私達は組織化していなかった。山やあちこちにいた。私は見つけ出した。ダバオの日系人会の助けを通じて、私達は自分たちを組織化した。そうやって始めた。

私も山に行って2世の生活を見たが、それは非常に困難な生活でした。90年代、唐仁原ファミリーには、母親と10人の2世がいた。彼らの多くは日本で働いている。彼らはMidsayap町にいた。

コタバト日系人会のカバーエリアは、コタバト市の中央部のみ。周辺もカバーする。一部は、スルタンクダラット州Lebak町にいると言われる。まだ山に身を隠している。一部の市町にいる人は集め組織した。

以前の生活は、Very Lowだった。生活を見ると、可愛そうで、自分をコントロールすることが出来なかった。私は泣いた。私は困難に共感した。彼らは戦争の影響を非常に多く受けた。

組織して、日本に行って、西田弁護士の秘書に自分の父親のことを尋ねた。父親は田中部隊に所属していた。彼らによれば、消息不明だと。私は、会計担当者に会い、(書類で?)「酒井」の名前を見つけた。しかし、彼がどこにいるかわからなかった。

(ミンダナオで商売をしていて、戦中は通訳として)日本軍に所属した父親は、戦後日本に帰国した。どこに行ったかはわからない。父親は、病気になった、と知らされたが、それ以上の消息は不明。軍の記録はあるが、秘匿されていて、見れないと秘書は言った。父親は、東京出身。親戚は、東京都渋谷区出身です。既に亡くなっています。

その父親の「ヒロオ・サカイ」を探す過程で、驚くべきことに、父親からだというお金を少し受け取った(嬉しそうに話す)。

シオン・オノさんは、日系人の本を出版している。彼は日本に滞在している。

2世の人数は?
20強。唐仁原さん一家だけで11人、佐藤さんは、回復出来なかったなあ。戦後、多くが名前を変えたり、書類を捨てたりしたから。リーガルペーパーを準備出来なかった。

3世の人数は?
少ない。アレンジしています。カテゴリ、A、Bというようにわけています。唐仁原さん、子供が11人、6人、家族が多いから。報告しない家庭も多い。名前を忘れている人もいる。同定するのが難しい。

日本の占領時にキャンプにいた。
村上ファミリーと一緒に、軍といた。

父親
ビジネスマンでした。Malawi市にお店がありました。乾物を扱っていました。
戦時中は、通訳として働いていました。


Susanaさん
コタバト日系人会は
25人の2世から始まりました。
今では、3世、4世合わせて800人のメンバーがいます。
コタバト日系人会会長のLisaさんに、インタビュー中に確認。
こんなこと尋ねられると思ってなかったから(笑)、データが家になかったので。
日本、フィリピン両国にいる人数です。
800人の80%は、日本にいます。

太田:個人のお金を使われたとか。
私は、このサービスをするのに1センタボも日本からお金を受け取っていなかったわ。
自活しながら、子供が日本で働くようになってからは仕送りの一部を使って、日系人を支援してきたわ。日系人のリーガルペーパーを整えるのには、手間がかかるの、彼らは貧しく、何も(書類も)持っていないし、彼らは書類のために、お金を割くことが出来ないし。なので、私は生活を切り詰め、自分を犠牲にしました。

子供は8人設け、7人が生存しました。旦那は10年前になくなりました。

85歳です。1936年11月5日生まれです。
まだ元気です。
年は考えてないわ。やりたいこと、できることがある限り!

他に何が知りたい?
ダバオ日系人の関係は?
ダバオ日系人は、Mother Organizationです。

Noriさんに初めて会ったのはいつ?
2000年を過ぎたあたりかしら。

1990年代は、日本人はコタバトを訪れましたか?
ダバオ日系人会を通じて、サポートしました。

最後の質問です。
今回の表彰について、どう感じますか。
おお・・・。言葉に詰まる。
You know, I am very happy, how i sacrifice, I love descendants. I have decoupaged to fight with the problem, now we accomplish the problems. The Consulate General Office recognized, the members of Nikkeijin sacrificed, Happy... It is an honor.  We are recognized how we are sacrificed. 


In fact, when the time I was helping them to work in Japan, I already give advised them, you work in Japan, its not you work for money only, we go to Japan, so that the culture we stay there we could learn, aside from that, we must improve our relationship, because we are Japanese. Do not work with just because your interest of money. No. Because we are Japanese, we love them. You always show respect to the company where you work. That is my advise to them. Because some they have much money, they enjoy, and very bad, when they come home, no money. So, I told them also, you are there you receive for your family in the Philippines. Do not come back in zero balance. If you are in zero balance, do not show your face to me, you are the one improve our family. Now most of the family are in good condition.
 

<懇談>
・食べ物がなく弱った兵隊さんに、妹と一緒に家にもどってさつまいもなどを持ってきてあげた。

兄弟姉妹の人数は?
6人兄弟です。
兄弟の「ひろし」は戦前に肺炎で亡くなりました。
もう1人46歳でなくなり、4人きょうだいとなり、1人妹が2年前亡くなり、3人が残っています。
妹の1人は、ダバオ日系人会の会計でした。もう退職しています。

なお、ご本名は、Estelita Michiko Sakai-Roalesdさんです。
中北部ミンダナオ日系人会=コタバト日系人会は、interchangably に言われているようです。
以上


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