名古屋大学教養部「国際開発学」の授業で講義

1950年以降の開発パラダイムを、端的にわかるようにまとめました。



第2次世界大戦後、アジアやアフリカの植民地が独立し発展を模索することになりました。
(フィリピンは1946年にアメリカから独立、1947年インド及びパキスタン、インドネシア1949年、ベトナム、カンボジアは1950年代、アフリカでは主に1960年代に独立。大雑把に言ってアジアの方が約10年早い。)

近代開発論
先進国が辿った経済発展をリピートすれば良いと考えられていました。
すなわち、「伝統的社会」→「離陸のための先行条件期」→「離陸」→「成熟への前進」→「高度大衆消費時代」へと単線系の発展が想定されています。

トリクルダウン
先に、都市部及び経済成長拠点を優先的に開発するわけですが、その効果は地方へも行き渡る「トリクルダウン」が起こると考えられていました。

ところが、この近代開発論に噛みつきます。

従属論=南北問題
先進国は、自動車、機械、電子部品など工業製品を生産し、途上国に輸出している。
一方で途上国は原料を先進国に輸出し、付加価値のついた製品を購入している。
これでは、途上国は貧しいままである。

また、途上国の大地主等が、先進国の企業や政治家と組んで、途上国国内を支配し、格差を固定している。

フィリピンの場合ですが、多国籍企業と顧問弁護士らが法をくぐりぬけて無料同然で土地を借り、パイナップルやバナナを生産確保してきた経緯があります。フィリピン国に支払われて当然の税金が免除になり、先進国の企業を優遇した形になっています。戦前の慣習に端を発しています。

環境 
経済VS公害の対立
1972年、国際連合人間環境会議(ストックホルム会議)において、環境問題が重要だと提示されました。国際会議における初の環境保全に関する共通認識と取り組みが宣言されました。日本では高度経済成長期1950年代後半~1970年代に公害病が発生しました。

現在の世代の発展VS将来の世代の発展
なお「持続的発展(Sustainable Development)」の概念は1987年にブルントラント委員会での最終報告書の中心的な概念になった。

「現在の世代のために資源を使い切るのではなく、次の世代、その次の世代が発展に使えるようにしましょう」という概念を90年代に習ったものです。あの原文は、どこにあるのか?

日本では、1984年に「環境影響評価の実施について」が閣議決定されました。フィリピンでは日本より早く1978年に環境影響評価に関する大統領令1586号が発布されています。公害病で大きな被害が発生した日本の方が、法律になるまでの時間がかかっています。

ベーシックニーズ(BHN)
南北問題や環境も大事だけれど、絶対的な貧困の状態にいる人々にとっては、先ず衣食住といった基礎ニーズが満たされて人は生活のスタートラインに立てるんじゃないんですか?という提示がなされた。1976年、国際労働機関、世界雇用会議のことである。場所は永世中立国スイスのジュネーブ。

人間生活にとって最低限かつ基本的に必要とされるもの。国際労働機関 ILOは 1976年衣食住や水・衛生・健康・教育など社会の基本的サービスや雇用および社会参加を人間の基本的ニーズとして推進すべきことを主張。(ブリタニカ国際大百科事典)

ベーシックニーズには、いくつかの問題が指摘されています。
1)誰が恩恵を受けるのか?
2)誰が決めるのか?
3)住民はただの受益者か?
4)実施する場合、地方の有力者の権力濫用の恐れはないか?

(「雇用」に関して、民間企業に雇用される場合は、住民参加による自助努力や行政支援ではない市場の原理が働きます。単に、雇用も必要だよね、という内容なのか、ベーシックニーズと整合する説明があるのか、別途調べます。知っている人がいたら教えて下さい。)

解放論
聖書を教えていても、現世で幸せになれない!
貧困や社会の不正義の原因からの解放。
南米で過激な宗教家や教育学者らが、住民が自ら問題を意識し、組織化し、課題を解決へ向けて行動するように指導しました。住民は貧しいのに、教会は立派で、キリスト教とは一体何なのかという反省がありました。暗殺された教父もおられます。

希望も力も無いと諦めている人たちを回り、連携させ、課題を解決していくプロセスはエンパワメントとも呼ばれました。最初に取り組む課題は、「小さく、シンプルで、短時間に出来て、すぐに効果が見られるものが良い」とされます。

住民は待っているだけでは変化しない。
開発の主体となるアプローチ、いわゆる参加型アプローチです。
「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える方が良い」という言い方をされます。

フィリピンでは、NGOによるコミュニティ開発で実践され、また行政(国家灌漑庁の水利組合や環境天然資源省のCommunity based Forestry Management)にも応用され制度化していきました。環境天然資源省の役人でも6か月住み込みを課せられたりしていました。友人はミンドロ島のマンギャン族のコミュニティに送り込まれ、当時村の人は半裸でいろいろと戸惑ったと語ってくれました。

村に入り組織を形成するまで、Participatory ApproachないしCommunity Organizingの手筋は確立しています。

内発的発展論
地域の伝統、資源によって多系的な発展があるとした内発的発展論。
Developの語源は「包まれていたものを開く」という古フランス語(desveloper)。
des(反) velopver(ほどく)という意味だそうです。
こうしてみると「開発」は直訳です。

しかし「開発」は、仏教用語で、「かいほつ」と読み、自分の内面の仏性を開くこと、他人を悟らせることの意味があります。その意味で、内発的発展論は「開発」の語源のニュアンスがあります。

内発的発展は、1975年、国連経済特別総会におけるダグ・ハマーショルド財団の報告『なにをなすべきか』に起源がある。原題は「What Now」で、林修氏の「いつやるの、今でしょ」に通じるインパクトと切迫感がある。

「もう一つの発展」と「内発的発展論」
「What Now」で提示されたのは、Endogenous Development (内発的発展)。
同財団が、1977年、第7回国連特別総会「もう一つの発展~いくつかのアプローチと戦略」(原題:Another Development: Approaches and Strategies)を提示しています。もう1つの発展では内発的発展を含み、また同じ財団から提出されたこともあり、「内発的発展論」と「もう1つの発展」はほぼ同義で使われています。

ダグ・ハマーショルド財団が提起した近代開発パラダイムに異議申し立てをした「もう一つの発展」の内容(1977年)
①基本的ニーズ志向(Need-oriented)
②内発的(Endogenous)
③自立的(Self-reliant)
④生態的に健全(Ecologically sounded)
⑤社会構造の変化が必要(Based structural transformation) 
包括的でLiberation(解放)

日本では1970年代以降半ば以降に鶴見和子らによって議論されています。
1)開発の単位:地域
2)発展プロセス:多様
3)目的:全人的な発展、共生社会
4)組織形態:参加、協同。住民の自己変革と主体性を重んじる。

近代開発論に異議を唱える内容です。鶴見和子、川田侃「内発的発展論」(1989年)の主張とダグハマーショルド財団の提起で私は本質的な違いを見つけられない。課題と言えば、「地域」の範囲の規定が出来ていないことですが、地域には階層性があり、且つ、人や物の移動も固有性があるため、細分化したアプローチにまでは落とし込めないのは仕方がないと考えます。

ミンダナオ島において思うことは、これだけ自然資源が豊富な島が貧しいのはおかしい、ということ。気候が温暖で、台風は来ず、火山灰土壌に覆われ、土地も広い。フィリピンの中央の政治から遠く、またムスリムとキリスト教徒の紛争、反政府共産ゲリラの活動などが足を引っ張っていました。元々、開発のポテンシャルはあり、またドゥテルテ政権になり追い風も吹いている。

人間開発
これまで開発の単位が、国、地球、地域であったのに対して、人間の潜在能力に焦点を当てられた。また経済(GDP)が発展の指標であったが、人間の潜在的な能力に関する健康や教育も加味した人間開発指標(Human Development Index)が取り入れられた。指標はノーベル経済学賞のアマルティア・センとパキスタンの経済学者マーブル・ハックが開発。

指標として、目指すべき位置を示してくれたことは功績と考える。
一方で、健康(=平均余命)や教育(=成人識字率、就学率)、所得などは、従来の保健、教育、経済の政策に対して個別に新しいアプローチを提起するものではないと考える。

2000年頃までは近代化論に対して異議申し立てを行う形で、開発パラダイムが提唱され熱い時代でした。

実際に、インフラ開発における立ち退き、バナナ農園の労働者VS地主争議など、都市でも田舎でも生活・生命をかけた闘いがありました。

2000年代に入り、MDGs(ミレニアム・ディベロップメント・ゴールズ)が提唱され、それが実現されないとなるとSDGs(エスディージーズ)に形を変え、落ち着いた感があります。

地主VS小作の階級闘争は、減っていきました。2000年頃は3年に1度くらいクーデターまたはクーデター未遂があり、市民も慣れたものでしたが、最近はありません。

地方自治法が1991年に制定され、地方分権が進み、特に地方自治体の各レベルで開発委員会に政治家や役人だけでなく住民組織やNGOが名前を連ねるように規定されています。マルコス独裁時代には後戻りしたくないという意思が感じられます。

行政の末端でも、住民組織やNGOと連携してプロジェクトを行った場合、住民組織が崩壊したり所定の成果を出せずに、行政側も苦しんでいたのですが、お互いに経験値を高め、協力的な関係になってきたことを感じます。

フレンドリーでコミュニケーション能力も高いフィリピン人。官と民の歯車が噛み合い、同じ方向に向いて、発展へ動き出した感を感じます。



貧困と闘うこと、より良いアプローチを探求すること私達のが原動力になっています。



150枚のスライドを使い、90分(発表60分、質疑応答30分)の講義をZoomで行いました。
日下先生、学生の皆さん有難うございました。
何か関心を持って頂ければ、やって良かったのだと思います。




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