雑誌掲載「珈琲と文化」夏号 季刊No.110 に掲載されました


雑誌掲載「珈琲と文化」夏号 季刊No.110 に掲載されました。
産地直送紀行 コーヒー生産地を歩きながら70
「世界市場」を目指すフィリピンコーヒー P1821
サザコーヒー 鈴木誉志男(ひたちなか商工会議所会頭)

ひたちなか商工会議所会頭の鈴木会頭はじめ視察団は2018年320日~23日にフィリピンを訪問された。記事はその紀行文であり、内容は以下3節に分かれている。
1)英語堪能な人材獲得へ
2)日本語教育に力尽くす
3)「世界市場」を目指すフィリピンコーヒー
コーヒーだけにとどまらず、日本とフィリピンの新しい関係構築の方向性に踏み込んでいる。

視察団は「ものづくりの町」であるひたちなか市における人手不足の解消を目的として、メトロマニラ首都圏及びダバオ市で次世代の(外国人)人材受け入れのネットワークづくりに関して情報収集や協議を行った。

ミンダナオの視察に関しては、「フィリピン国内で最も日本語教育に力を尽くす高等教育機関」としてミンダナオ国際大学を紹介して下さっています。日本語教育には、その歴史と意義を理解していただくため補助線を以下に引いてみます。

1903年 ダバオに米軍除隊者50人ほどが入植。麻やコーヒー農園を拓く。
1905年 太田恭三郎がルソン島バギオ高地の難路「ベンゲット道」の工事にきていた8,600人の日本人のうち180人を連れてダバオに渡る。アバカの農園を拓く。開拓には非常な困難がともなった。

また、現地の先住民との土地の問題も抱えながら、日本人の人口は増え、最盛期には約2万人、日本人小学校数は13校、ダバオ州の税収の半分を日本人が払う時代もあった。

しかし、第2次世界大戦で男性は徴用され、女性と子供たちは山中を逃げまどい、日本人の財産は没収され、フィリピン人女性と2世が残された。彼らは山に隠れ住み、日系人会が結成されたのは、戦後30年以上経った後の1981年になってからでした。(参照:バナナと日本人、鶴見良行著)

ダバオに住んでいて、日系人の方々のお話を伺う機会もありますが、筆舌に尽くしがたい苦労をされておられます。その状況に気づいた方々が尽力され、日系人の地位の回復が図られてきました。

日比の関係が模索される中、ひたちなか商工会議所とミンダナオ商工会議所の会合から、新たな方向性の輪郭(両商工会議所の緩やかな協力関係、より柔軟な人材活用・ネットワーク化)が浮かび上がってきました。今後に注目されます。







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